企業と地域が未来に残す“本当の資産”とは
企業や自治体にとって、将来にわたり持続可能な社会を築いていくためには、もはや「財務的価値」だけに焦点を当てていては十分ではない。株主や投資家はもちろん、従業員、地域社会、取引先など多様なステークホルダーが「価値」の意味を見直しつつある今、注目されているのが「非財務的価値」という観点である。気候変動や資源枯渇への対応、生物多様性の保全といった課題に真摯に向き合い、未来に“持続可能な環境”を残す姿勢こそが、新たな信頼資本となる時代が始まっている。
中でも「ネイチャーポジティブ」は、非財務的価値創出の要として国際的に急速な広がりを見せている概念である。これは、「自然への悪影響を抑える」段階を超えて、「自然を回復し、再生する」段階へと踏み出す姿勢を指す。2022年に採択された「昆明・モントリオール生物多様性枠組」によって、ネイチャーポジティブの理念は国際目標「30by30」と共に明文化され、各国政府や企業の戦略に組み込まれつつある。
しかしながら、このネイチャーポジティブの取組は、単に環境部門の取り組みとして閉じた話ではない。実は、企業のブランド価値、人的資本の育成、リスク管理、さらには投資家との関係構築といった経営全体の土台ともなる“非財務的価値”に直結するものである。たとえば、ある企業が敷地内の社有林を、単なる未利用地として放置するのではなく、在来種の植生回復や環境教育の場として整備したとする。これはCO₂吸収源としての価値を持つだけでなく、地域住民や従業員との関係性を深め、持続的な事業基盤の形成にもつながる。こうした価値は決算書には現れないが、確実に企業の“評判”と“信頼”という資産を形成する。
さらに、TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)をはじめとする国際的な非財務情報開示の潮流において、企業が自然資本にどう依存し、どのような影響を与えているかを可視化・説明することが強く求められている。森林、水系、土壌、植生といった自然資本の状態は、実は企業活動のサプライチェーンに深く関わっており、自然環境の劣化は原材料コストの増加や事業継続リスクの顕在化につながる可能性がある。だからこそ、ネイチャーポジティブの視点に立って自然資本を評価・再生し、その価値を社会に説明することは、戦略的経営そのものでもある。
地域社会にとっても、ネイチャーポジティブの取組は単なる自然保護活動にとどまらない。地方自治体では、公園や里山、農地周辺の未利用地などを「自然共生サイト」として整備する動きが広がりつつある。こうした身近な自然空間は、単に生物多様性の回復に貢献するだけでなく、防災・減災、地域観光、環境教育の場としても機能し、結果として地域経済やコミュニティ形成に寄与する。とりわけ人口減少や高齢化が進む地方においては、自然との共生が「人の流れ」や「地域の魅力」の再構築にも直結する。
近年、投資家の間でも「ネイチャーポジティブ企業」への注目が高まっている。ESG投資の潮流が気候関連情報だけでなく生物多様性や自然資本へと広がる中、企業のネイチャーポジティブな取組が“将来の成長性”や“長期的な信頼”の証とみなされる傾向がある。また、従業員にとっても、企業が社会課題に対して真剣に取り組んでいるかどうかは、エンゲージメントや離職率にも影響を与える。特にZ世代・ミレニアル世代では、企業の価値観やサステナビリティへの姿勢が就職先選定の重要な要素となっており、ネイチャーポジティブのような取組が“働く誇り”の源泉にもなり得る。
一方で、非財務的価値は数値化が難しいこともあり、その定義や測定に苦慮する企業も多い。だが、こうした課題に対しても国内外で様々な指標の整備が進んでいる。自然共生サイトの登録制度や生物多様性指標、TNFDのLEAPアプローチ(Locate, Evaluate, Assess, Prepare)などは、企業や自治体が自らの取組を定量・定性の両面で把握し、社会と共有するための有力なツールである。
ネイチャーポジティブは、もはや環境専門部署だけのテーマではない。それは経営者が未来の企業価値をどう構築するか、自治体が地域をどう再生するかという、まさに“資産形成”の議論そのものなのである。そしてこの資産は、地価や建物のように明文化されたものではなく、人と自然との関係性や共感によって構築される、目に見えにくいが確かな価値だ。
企業が持つ土地、森林、水源、あるいは従業員の行動や地域との交流の中にこそ、未来に残すべき“本当の資産”が眠っている。それを見つけ出し、磨き上げ、社会と共有すること。まさにそこに、ネイチャーポジティブがもたらす非財務的価値の真髄がある。
まとめ
ネイチャーポジティブの取組は、単なる自然保護にとどまらず、企業や地域が未来に遺す“非財務的価値”の創出につながる。それは、従業員の誇り、地域との信頼関係、投資家の共感、そして将来世代への責任を内包した“目に見えない資産”である。私たちは今、自然と共に歩む経営とまちづくりを通じて、次代へとつながる価値を創造する新しいフェーズに入っている。ネイチャーポジティブは、その確かな道標となり得る概念である。